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2018年3月

家族が笑った ~完~

今から7,8年前のお話です

父が 脳卒中で倒れて

何年目だろう

父 母 兄 姉

そして わたし
久しぶりに 家族が
揃ったある日
 
父の散髪が 始まった
床屋さんは 母である
父の ご指名である
みんな みているそんな中
 
電気バリカンで がーがーがー
母は たまに 乱暴な時がある
バリカンのどこかが
頭に ひっかったのだろう
『あっ うっ』 声にならない
父の声 そして 鬼の形相
母は 舌をペロっとだし
『あー 悪かった 悪かった』
顔は 全然反省してない。
 
そんな やり取りをみて
兄が笑った 姉も笑った 
私も そして母も
おなかから笑った
心からわらった
声を出してわらった
笑い声は
だんだん大きくなった
父もつられて苦笑
 
たわいもない
出来事だったけど
何かはじけた
みんながいた
 
家族が笑った
 
こんなに みんなが笑ったのは
何年振りだろう
なんて 幸せな 時間だったんだろう
家族がみんながいっしょに笑えるのが
こんなに 幸せだなんて
なんていうか ほっこり しあわせ
 
神様が ひきあわせてくれて
こんな 時間を作ってくれたのだろう
 
それから 数年後
父は 旅立った
 
不条理で 理不尽な 世の中
みんな 必死に 懸命に生きてる

いろんなことが あった家族
今も いろんなことが ある家族
 
 
でも 私は
この 家に生まれてよかった
この家族で よかった
 
笑っていられる 家族でいたい
 
家族が笑った ~ 完 ~ 
 
おやじ まだまだ
そっちには いかないぞ!^_^

家族が笑った㉒

今から数年前

以前の記事でも書いたが 
 
兄から 父の介護を手伝ってくれ
との 連絡
私は すでに サラリーマンをやめ
いとこと愛知で働いていたが
青森へもどった
 
母は すでに 退院していた時の
話である
母も 介護認定 父も 介護認定
階級は 忘れた
でも社会福祉事務所に
ベッドをかりにいった
母は 車いすではなく
ジジババ乳母車(なんていうか
わかんない)で家の中移動 
私は おもに 父の 補助
トイレ 下着替え 下の世話
歩行運動の補助
料理担当
好評だったのがカレーと
スパゲッティサラダ
(マヨネーズにちょっとだけわさび)
 
そんな中で感じたのは
父の変化
 
子供に帰っているのである
自分の思い通りにいかないと
ぐずるのである
でも完全に 認知症ではなかった
人の話は ほとんど理解していた
ただ 自分から 表現できないだけ
でも最初は 話せたんだよなー
少しだけ・・・
 
こどもに戻っているのが
認知症だとは思わない 
 
ただ
くずり始めると手がつけられなく
時がある 歩行運動の補助の
時 よっぽど 後ろから
踏んでやろうかなと 思った
 
私の言うことはきかないで
兄の言うことはきく
入浴時等
私の 体の 支え方は
くずるけど 兄だと
いうことをきく
そんなことの繰り返し
でも 後から わかった
私の 介助方法が
いかに 雑だったことを・・・


たった1か月だった けどおもった
これは どっちが先に くたばるか だと
テレビで 介護疲れで・・・ との
話を聞くけど
ちょっとだけ わかった 大変さが・・・
あと 身内だから出来るんだなー って
あの くっさーい ウンチの世話なんかも
 
以前 テレビで 誰かが 言ってた
ほとんど 手抜きでいい
危ないとおもった1か月前くらいから
一生懸命になれって
んじゃなきゃ 自分がくたばるぞって
あんたが くたばったら
誰が ジジババの面倒見るの って
 
兄は そんな 父を よくぞ
何年も 頑張ったとおもう 
父母の食事の管理は
病院よりすごかった
どんなにくずっても
カロリーオーバーに
ならないよう だましだましだった
とても 私にはできない
 
そんな ある日
嫁ぎ先から 父 母の様子見も
かねて 姉も 家に戻った
 
つづく

家族が笑った㉑

父は60半ばで 脳卒中で

倒れました
兄曰く
『母の信仰のせいだ』
そんな 大げさな
行動をしたわけではなかった
(あくまでも私の見解)
母だが 父とのちょっとした
トラブルが あったとのこと
兄はやはりよっぽど母の
そういう関連の言動が
いやだったのだ 
 
母も たしかに なんでも
かんでも 首を突っ込むくせがある
それは 晩年 反省している
 
父は そんな 母との言い争の
何か月か何週間かわすれたが
その直後 倒れたので
兄は そのせいだという
 
脳卒中の後遺症で
手足の一部のマヒ
それによる 歩行困難
言語障害
自分では 話そうと思っても
言葉が来ない
 
今から二十数年前
もちろん 母も現役であった
その日から 父の介護がはじまった
 
つづく

家族が笑った⑳

父はユーモアあふれている

洒落っ気たっぷりの人
このへんは 絶対私はDNAを
受け継いだ
スケベーなところも・・・coldsweats01
 
父は末っ子である私のことが
かわいかったにであろー
幼稚園の頃
朝からチューしてくるのだ
突然に・・・
それもディープである
タバコ臭く ヒゲちくちくで
ディープである
DVである セクハラである
パワハラである
 
ある日
『おい なんかズボンのおしりん
ところが ほころびてるか見てくれ』
私もバカである
どれどれと のぞくと 『ぶーーー』と
一発かまされるのだ
 
母親が台所で炊事してると
『おい あっぱ(方言で母親の意)
なんか 泣いてるぞ 見てこい』
何のことはない 鼻歌を歌ってる
のだった 裏声で・・・
♪こーいーの しんじーく
うらどおりー♪
それも なまってるのだー
しんじゅくじゃなく しんじく
なのだ
父親はもちろん鼻歌だと
わかっていて 私に
いいつけたのだ
純真な私は 母に聞くのだった
『なんで 泣いてんの?』
母も父も大笑い つられて
私も大笑い
 
つづく

家族が笑った⑲

これは 数年前の お話です

 
母は 骨髄損傷
息子 私は 糖尿教育入院
なんか 複雑 肉親が一緒という
安心さと なんで 二人も
入院しとんねん
私は 特に動けないわけでもなく
むしろ 動けなのだ
1日のほとんどは 歩行運動
院外 ぐるぐる 遠出するのが
日課
たまに 母親の顔 見に行く
母『入歯 あらってくれ』
みなさん 決して 
イメージしないでください
 
パソコンで持ち込んで
通信しようおもったが
7、8年まえって まだ
定額プランそんななかった
ガラ携だったし デザリングなんて
なかったし
携帯をモデム代わりにして
つないでたが
通信切断しないで 眠ってしまって
料金見たら 4万超えてた(-_-;)
 
ベッドいっぱいだ って割には
最初の2日ぐらい大部屋に
高校生のおにいちゃんと
2人 
お話してるとなんと 
私の母校(工業高校)の
隣の駅の高校(農業高校)の
相撲部
17歳にして 糖尿
もともとなのか 太るための
カロリー糖分オーバーなのか
 
そんな 2週間が過ぎて
私は退院
母はまだまだ リハビリ中
私は愛知へ もどったのだった
 
つづく

TS-1 1クール完了

TS-1は 4週間服用して

2週間お休み
昨日 4週間の服用完了しました
今日から2週間 おやすみです
 
体調
・アブジェムの名残
手足の指先のしびれが残ってるが
1日1日弱くなってるのがわかる
 
・胸のじくじく
TS-1開始2週間はきつかった
『タケキャブ』が大当たりで
服用後(3週間目)からほとんど
なくなった
 
・便秘と下痢が交互で
詰まってたものが出た後
ピーピーである
物がおなかにたまってるときは
食べ物入れたとたん 腹痛
たまったもの出すとすっきり
胸のむかむかもなくなる
 
・腹痛
やはり最初の2週間は
きつかった
後半2週間『タケキャブ』と
たまってたものが出たことで
らくになったが
周期的に やってくるときがある
 
・食欲
これも最初の2週間は 落ちたが
現在 通常の食欲
昨年よりは 落ちてる
味覚障害は 少し残ってます
 
・足の筋肉痛
大腿部にすこし残ってるが
これも手足のしびれとおなじで
弱くなってるのは感じる
和式トイレがきついのと
歩行が まだちょっと
 
・倦怠感
以前に比べたら 格段に楽
今は 寝てばっかりの影響の
だるさだと思う
 
・総合
発熱 嘔吐 低血糖などの
症状なし
今現在 今年に入って
一番楽 いや 抗がん剤
投与以来 一番らくかな?.

 
Dsc_4742
 
ニンジンジュースです
だなされたと思って 飲んでます
 
特にすすめません(-_-;)
ちなみにここです
帽子買ったのがきっかけです
 
脱毛は戻りました
戻りましたっていうか
もともと ないので
えーーと そんな感じです(-_-)

さくら咲く

血液検査結果

 
2018032801
 
Dr『データーは すごくいい』
白血球もいいし
γも下がったし
そして なんとマーカーが
下がった
 
Scan001
 
はっきり言って 期待してませんでした
下がったんです
『効いてるね』って 先生
 
Drに 前回からの 症状を報告しました
下痢気味で 腹痛があったことなど.もろもろ
『それ 違う原因じゃないかな』
またはじまりました
自分が処方した薬でなんかおきると
絶対 否定します
アブラキサンで 筋肉がおかしくなった時も
違う薬のせいだと言い張る .
歩けないのに 歩けという
 
このDr 薬の事 わかってるんだろうか
TS-1は 下痢の副作用がある なんて
Dr以外 皆知ってるぞ!
別に『下痢した どうしてくれんだ!』
って 言ってるんじゃないのに
 
アブジェムかTS-1は既定路線
この薬 で いきましょう
効かなくなったから 次
これ いきましょう
限られた 種類しかないんだから
こんなんだったら 俺でも
処方できるは!
 
困った Dr
ブライドだけ高い
典型的な 医者
 
最後に.
『胃のムカムカ ジクジク
タケキャブで治りました』って
ゴマすったら
『そうでしょー』と得意げ
こんなん 付き合ってられない
こんなもんだよ 医者って
ケモ室へ行こ。
 
症状話して 先生とのやりとり
愚痴って 本日終わり
看護師さんの方が
ずっと ずーーーっとわかってる
 
医者って ほんと この程度
人間として
保身と 余計なプライドと
スッカスカな 出世欲
あそこまではいかないけど
まさに 『白い巨塔』の
○カ医者そのもの
 
りっぱな Drもいるけど・・・
 
Dsc_4744
 
院外薬局の前の桜
 
今日は マーカー下がって
気持ちは この桜
って 感じです
とりあえず よかった
数か月 いや 数日でも
数時間でも
延びるんだったら 
うれしいのです
 
ずっと 咲いててください
ずっと 咲いてていたい

診察日3/28

2週間ぶりの
消化器診察日
採血もおわり
診察まち

家族が笑った⑱

私は元々

高血圧 糖尿病で
飲み薬を 服用していた
父の付き添いをしてくれと
兄に言われたとき
懸念してたことが 実際起きた
兄にそんなこと言っても
聞いてくれる人ではない
 
今回の一連(最後は家に帰りたい)の
ことで 兄に対する 記事が
偏向記事気味なってるが(^_^;)
兄は意外と冷たいのである
 
父の主治医も心配して
診察してくれた
血圧200越え 血糖値300越え
だったのだ
主治医『あなたの方があぶない』
そう 実はほとんど眠れない
状態だったのです
 
父はいつものパターンで
日を増すごとに安定してきたのだ
 
結局私の方はベッド空き待ちで
入院予定となった
そう 父の退院予定待ちなのだった
笑えない 笑ってしまうお話
 
父親の退院日の前日
私は入院となった
なんと この日
同じ病院に
父親 母親 息子が
入院状態
兄は苦笑しながら
『あーーー うちは終わりだ』
 
まっ 翌日父は 退院し
私と 母の 入院生活が
始まったのだ
 
その頃まだ バイきんぐは
まだ世に出てなかっと思うが 
小峠風に『なんて日だ!』
 
つづく

家族が笑った⑰

父は脳卒中の後遺症が 

あったが 完全な
認知症ではなかった
ただ 調子を崩し
入退院を繰り返していた
母も入院し兄も
農作業があり
どうしても手がほしかったのだろう
愛知にいる私に
1か月でいいから父親の介護を
手伝ってくれと連絡がきた
 
身内である社長に話し
青森に帰省した 長期帰省である
 
父の状態は言葉は話せないが
認知症も軽く人の話は理解できる
そんなある日父親を定期診察で
病院へ送り 診察が終わるまで
駐車場でまってると看護師が
『お父さんが ・・・・・・』
一連の症状出たのである
おにぎりをボロボロこぼしながら
ボーっとして食べてるとのこと。
症状は微妙に違うが
入退院を繰り返すいつものパターン
みたいである 
 
そのまま 入院 そう
母親と同じ病院に入院。
 
病院では付添いはいらないといったが
兄が トイレ等での転倒が怖いので
泊りがけで付き添ってくれということに。
本来は病院は認めないのだが
長年の付き合いもあり 認めた
ベットと壁との間に布団を敷いて
24時間看護が始まった
 
私自身も付き添いはいらないと思ったが
確かに夜中何回も起きてトイレへ。
ひどいときは5分おき。
兄は自分で介護してきて 心配してたのだ
しかし そんなことが続いた何日か後
私が 体調を崩してきたのだ
 
つづく

家族が笑った⑯

母は
日赤での手術を終え
何日か後 また N病院へ
再転院
 
叔母も付添いはそのまま
 
社長の 父親である
私の叔父。
付き添ってる叔母の旦那である。
義理の姉である私の母親のためなら
と 長期滞在をを許して
いた叔父も痺れをきらしてきた
 
母の
体調も安定してきたところで
叔母は 愛知へ戻った
しかし この後
わが一家に また・・・
 
つづく



家族が笑った⑮

母の
傷病名は『脊髄損傷』
だったと思う
ただ あと1ミリずれていたら
下半身まひで 一生車いす
だったかもしれないといわれた
主治医に『○○さん 奇跡』と
言われたそうだ
母曰く 
『お題目唱えて信仰していた
おかげだ』
おいおい 母上殿
崖から落ちた時点で
十分不幸のめぐり合わせだと
思うけど・・・(-_-;)
信仰ってものは 都合がいいものである
まっ 本人がよければ
それでいいのだが・・・
私も 以前は そうだったけど・・・
 
母は 父がお世話になってる
隣の隣町のN総合病院に入院
父は定期的に診察にいってるし
何かと都合がいいのだ
しかし 所詮 町の総合病院
わが故郷の 唯一の
大都会(^_^;)である 八戸の
日赤病院へ転院
 
私はその時 すでに
サラリーマンをやめ
従兄弟でやってる
今の職場で働いていた
ため 愛知県人であったが
こんな事情のため 帰省して
母の世話をしていたので
青森にいた。
 
長期休職できるたのは
身内であるがゆえの
ありがたさ
 
転院時 上半身を動かせない
とのことで 救急車搬送
私も同乗 生まれて
はじめての 救急車だったのだ
ほどなく 私は愛知へ
もどるのだが
八戸日赤入院時は
入れ替わりに愛知から
従兄弟である社長の母(叔母)が
付添いのため 青森へ 
そう 母の妹なのだ
実の妹が付添いで 母も
『心強い 助かる』と喜んでいた
何十年ぶりかの二人の
再会である 
 
つづく
 

このままいっちゃうか家族が笑ったシリーズ

なんか 勢いが
とまらない
いま 書かないと
また ずーと
かけないかもしれない
○数字もたしか21まで

21で 終わるかなって
 
どうでも いいはなし

家族が笑った⑭

兄は母の崖からの落下を

現認していない
母の記憶がさだかでないので
転げ落ちてからどのくらいの
時間が経過したかさだかでない
十数分はたってたのでは・・・
崖の角度は45°以上
殆ど垂直に近い
 
発見時 母は
足はまっすぐ前に そして 
おしりが 用水路に
すっぽり入り 手を合わせ
お題目を唱えていたという
母にとっては 意識朦朧としながら
お題目だけが支えだったかもしれない
 
兄は近所の伯父を呼び 母を引き上げ
とりあえず 自家用車へ乗せた
父は 足が不自由
麻痺で言葉が 発せない状態で
母のその姿をみて 鬼の形相だったとか
心配で心配でたぶん心のなかで
『大馬鹿野郎!』と叫んでたのだろう
 
ここで 救急車を呼ぶのかと思いきや
自家用車で搬送したのだ
意識はあるが朦朧している
一刻を争うときに
車内で処置ができるかもしれない
救急車を選ばず自家用車を選んだのだ
 
世間体である
 
田舎であるわが集落は
今はどうか知らないが
ピーポーがなると みんな一斉に
道に出てきて 到着場所を確認する
そう 誰が搬送されたか
SNSよりはやいのだ(^_^;)
 
兄は 後日
『あれは 間違いだった』
 
当たり前だ!
 

どんな状況で転げ落ちたかわからないが
ちょこんと座った状態だったのは
奇跡だったとしかいいようがない
そう 頭部の直撃を
かわしてたのだ
 
母 強し
 
つづく

家族が笑った⑬

父親が60半ばで 脳卒中で倒れ

言語障害 四肢の一部の
麻痺の状態
その数年前から 体も弱り
営林署(この言葉わからん人もいるかな?)
の仕事も農作業も引退 
炊事洗濯のいわゆる主夫になっており
収入のほとんどである農作業は
兄と 母の二人でがんばってました
母は 口もうるさいが 性格も
一言多い(変な日本語でごめんなさい)
そんな一言多い?!行動が悪夢へ
 
何年前だろう今から7、8年前?
2009年?んーー忘れた。
 
もう作業も終わり 兄は
母に『家へ入って』
しかし 家の前の畑の草取りだけ
したかったのだろう 母は
畑から 崖へ そして崖から 崖下へ
 
疲れていたのだろう
どう考えても 地形的に畑から
崖転落へ
はいかない 絶対に!
崖のまえに 一個目の用水路が
あり 小っちゃい橋代わりに
渡り板を超えないと崖へはいけない
たぶん 違う原因で 意識朦朧となり
崖へ よろよろと・・・ そして 崖下へ
 
♪ジャージャー
ジャーン♪(火スペ風)
 
母曰く 『何かが なにものかが
私を引っ張っていた』 でた!
母親流推理(-_-;)と
兄は思ったはず
家の前は 庭 ちょっとした自家野菜の
畑を隔てて 十数メートル先に崖
崖の真下に幅1メートルもない
二個目のコンクリート製の用水路
時期にもよるがそこには水が流れている
その横は 田んぼ
そんな 崖下へ・・・
 
そして あり得ないアンラッキーと
ラッキーが交差する
母は そのときの記憶がさだかでないが
お題目は 唱えていたと・・・
そう 母親らしい
 
つづく

家族が笑った⑫

母はちょっとやそっとでは

へこたれないのです

兄は  私が帰省して

飲んだ時

『お前は もう外に出ているから
わからないかもしれないが
いろんなことがあった』
その お告げ行為とか
いろんなことを
言ってるのだと思うが
私もそれは見てるし
殆どは 母と二人での
帰省の際の話で聞いてる
 
兄も 自分の記憶の
時計が狂ってる
 
そんな 兄のプライオリティは
あくまでも 『母』なのだ
 
そんな母に 数年前
大事件が・・・・・・
 
つづく

家族が笑った⑪

母のその行為(前記事参照)も

数年後にはなくなっていたが
信仰心はかわってない
私も高卒後社会人となり
実家での出来事はわからない
 
母の信仰心も暴走する時が
あり 自分の考えをとうそうと
して トラブルもあったみたいである
兄は 昔から母のその信仰心から
くる行動を嫌っていた というか
一般的な 仏壇 神棚への
日々の作業もしない
それを始めたのごく最近である
ただ母への 嫌悪感は
その部分だけである
 
母は あんな夢見たこんな夢見た
と 話をし 『先祖のせいだ』とか
『恨みのせい』『自縛霊だ』と
お題目を唱える
 
ここで 断っておきますが
極端な行動には走りませんし
精神的な 病気ではありません
テレビでよくある 異常な行為はしません
お題目を唱えたり 水行をしたり
ごく一般的な行為です
根本は家族のため 家のためです
 
私が帰省すると 夜遅くまで
母と二人でそんな話をします
私も『こんな夢見た』
『最近変なことばかり起きる』
ってな ことを話してました
兄は『また 始まった』っと
口にはださないが 黙認です
 
そんな感じの母と私の関係
母の性格がわかると以前
書いたのは そんな母との
関係からです 
 
母はもともと 目が悪いです
が 生活に支障が極端に
あるわけではたまにサングラス
をかけるぐらい 光に弱い???
 
ある日 兄と飲んでるとき
『昔 緑内障を患い死にたいと
漏らしていた』という 話を聞いた
それを 何年後かに 母に聞きました
『そんなこといったことないし
ショックだったけど 死にたいと思った
事もない』
母はいわゆる肝っ玉母さんです
昔は母親はみんな こんな 母親でした
 
そう 兄はやさしいのです
 
つづく
 

家族が笑った⑩

私の母はお茶目

頑張り屋
 
ある意味家族の中で
一番働いた
 
母は 信心深く
信仰心が高い
と いっても
ある特定の宗教団体に
入っているわけでも
入っていたわけではもない
ある一般的な宗派を
信仰していた。
財産をささげるとか
壷を売るとは 買うとか
そういう信仰ではない
また 霊感も強い
そのせいか むかし
お告げ屋さん(イタコではない)
だった(この表現が正しいか
わからないが・・・)
ただ あくまでも 自分からでは
なく また ひとりではできない
小さいころ それを 見ていた
私たち兄弟は すごーく
複雑だった っていうより
すごーくいやだった
だって 豹変するのだ
私自身も霊感が強い方で
考え方も影響し 理解し
ある お寺に行きたいと
いうと 運転手も兼ね
一緒について行った
 
ここで あえて書いて
おきますが現在私自身は
無宗教です 
それは 心筋症ではじめて
死を意識し 身障者となり
数か月後あの悪夢の
震災をみてから 神も仏も
信じません
あの年から私の人生観は
おおきく変わりました
 
つづく

おなかの具合

下痢と便秘の繰り返し

 
TS-1の副作用で
下痢になるとのことだったが
常にピーピーなわけではない
出ないときは出ないのだ
2日、3日で硬いやつが
最初出るが その後
すぐゆるゆるなのだ
トイレから戻って
すぐまたトイレへ
その繰り返しが
続くときがある
便秘で出ないときが
一番苦しい
おなかにたまってる時は
食べ物を入れると
おなかが痛む
 
前回診察後全般1週間が
そんな調子だった
でも おなかのものがでた
直後 楽になった
食欲も少しだけ回復し
食べ物入れても 
直後の 腹痛はなくなった
でも 周期的???に
腹痛はやってくる
んで なんとなくおさまる
もようすけど ガスばっかり
その繰り返し
 
でもいまは 落ち着いてる
 
アブジェムの名残
手足の指先の痺れは
ほとんどなくなった
 
食欲あるうちは
まー 大丈夫

カップ麺

現在TS-1服用中

・下痢
夕方から夜にかけて
くるのだ
以前みたいにガスだと
思ってると大変なことになる
幸いOUTになったことは
まだないがギリギリセーフ
殆ど水の時もあるのです
いつ もようすかわからないので
外に 買い物にいくのが怖い
 
・腹痛
下痢に伴う腹痛
通常の下痢もそうだが
おさまったり 突然きたり
 
・食欲不振
食事は 朝と夕のみ
量は2食合わせて
1食分弱
フルーツでごまかす時もある
とにかくご飯もの、おかずが
入らない
そんな時
どなたかもブログで書かれて
ましたが
カップ麺が食べれる
なぜかこれだったら入る
いまのところ ミニですが
 
とにかく 吐き気まではないが
普通の食事受け付けない
フルーツ ゼリーものだったら
大丈夫かも
それと カップ麺
 
でも 空腹感は 来るのだ
おなかすいたって 
指令出してるのに 胃はいやだ
って いってる
味覚障害もあるんだろうなー
脱水症状が怖いから
水分とらないわけにもいかない
アブジェムのあの悪夢の
筋肉痛ほかの副作用もいやだが
 
TS-1もやっかいだ
なぜか 体重は思ったより
減ってない  66.8㎏
BMI 64㎏
 
明日は休日
あさって ケモ室電話して
TS-1休止相談してみようかな
でも それで効き目がなくなるのも
いやだ
いま実際効いてるかが
そもそも 不明だが・・・
 
セブンイレブン宅配サービス
復活 とりあえず ゼリー
カップ麺ミニ
 
やっぱり一人は なお つらい

家族が笑った⑨

兄は シャイです

私が社会人になってから
友達とか知人とか
家に連れてきても
顔を出しません
挨拶すらしません
 
父が 元気で健在な頃
私が帰郷してもすぐに
自分の部屋にこもります
そんな時 父 母 私の
飲んだときの 話題は
兄の 結婚のことが多かった
あるとき父は 涙ながらに
はなす時もあった
 
兄もそれが嫌で
部屋に行っちゃうのは
わかってました
兄も 悩んでたんです
ひとづきあい 得意じゃないけど
周りの信頼はあります
 
でも やっぱり
踏み出さないとって いってる
おれは 独身で
終わりそうですが(-_-)
 
ショックのあの日から2週間
切り替わりました 
 
憎んだり恨んだり
そんな時間はありません
あえて 恨むとしたら
こんなに なった私自身
(なんか なにいいたいんだろー)
人なんかせめられない
って いいきかせてるのです(-_-;)

診察結果

18031401

消化器科

数値的にはまずまず

γは 胆管づまり???

総ビリルビンが異常値及び

自覚症状がでたら入院だそうです

 

胃のジクジクは逆流性食道炎だそうで

ムカムカもあわせて『タケキャブ10』

ってやつを処方してもらいました

TS-1は今回も2週間分処方。

 

つづいて 循環器

いつもの薬 処方1ヶ月分

次回心電図予定

 

その次は内分泌

それなりに 食いもん

気をつけたけど

A1Cは 11.いくつで

前回とかわらず

とりあえず現状でがんばりましょう

でした

 

その後 ケモ室の問診

私にとってはここが一番

意味がある

前回の院外薬局の話

身内に見捨てられた話(^_^;)

Drに はなせないこと

ぜーんぶ愚痴りました

あー すっきり

『タケキャブ10』

いいーーー選択との

薬剤師の先生のお話

さっき 服用しましたが

効きません

せっかちすぎ???

結局 オキノームでジクジク

ムカムカ おさまった???

次回造影剤CTは5/16

今日も聞いちゃった

『TS-1どのくらい効きますかね』

Dr『わからない』

わかっちゃいるけど・・・

総合相談室で

今度聞いてみようかな

緩和ケア関連

本日診察日

本日
消化器 内分泌 循環器
3連チャン

あいかわらず
胃がムカムカしてます
熟睡できず眠いというか
ぼーっとしてるというか

はやくかえりたい

消化器 診察まち

近況

TS-1にバトンタッチして

2週間
明日は診察日
とりあえず 様子を見るため
2週間トライアル???
でした
 
現在の症状は
 
たぶんアブジェムの
名残だと思うが
手足の痺れがまだ
残ってます
でも だいぶ 弱くなりました
 
TS-1になっての症状
 
服用1週間後から
胃のあたりむかむか
じくじく
いろんなことがあったことの
精神的なストレスも関係が
あるのか ないのか
1回だけオキノームのお世話
になったけど
微妙な症状
病院にHELPするほどでもなし
嘔吐するほどでもなし
 
それと下痢
便秘たったのが 昨日
お昼頃から急に下痢
会社だったので 和式
連続3回 (ほぼすぐ)
最後は 水
夕方にはおさまり
現在症状なし
下痢は注意点として
いわれてました
色素沈着は
まだですが・・・
 
あと ずーーーっと
かるーーーい 倦怠感
すこし 食欲も落ちてる
 
こんな感じで
明日のご審判は
どうなるのか
 
それでは 皆様
家族が笑った 後編を・・・
またねーーー(^-^;
 
とりあえず いきてます

家族が笑った⑧

兄もけっして

結婚のチャンスが
なかったわけではない
相思相愛の相手がいた
一時電話工事関係の
仕事をしていた兄
その会社の長女
そうです 二人とも
跡取り 
あきらめたのです
 
兄は より家のことを
考える人
両親のことを考える人
簡単には 踏み切れないのである
とくに 親戚の 嫁姑とかの
いざこざをみている 兄には 
なおさらである
 
自分でも苦悩しているのは
私にもわかる
いわゆる 本家であるという
世間体もふくめて。
 
これも わたしも大きなことは
言えないが
いつかは 思いきらないと・・・
本人も『自分は気が小さい』
という
それと 兄もけっして
人づきあいが得意とはいえない
 
つづく

家族が笑った⑦

冬のなると 兄は

トラクターを除雪車仕様にして
家の前を除雪する
そのうち お寺の境内を
ボランティアで除雪する
ようになった 何年かのち
住職は 申し訳ないので
お金を払うといいだした
兄は断ったが結局
お金を頂く事になった
それには ひとつ理由がある
ボランティアでやってたころから
一部の住人から
『お金がほしくてやってる』
陰口をいわれた
どこにも バカはいるもんだ
それだったらということで
住職と相談して あえて
いただくこととなった
 
兄は毎年コンバインでの稲刈りも
依頼されている
地区で 兄を悪くいう人はいない
しかし 私が言うのもなんですが
いまだに 独身である
 
つづく

家族が笑った⑥

6つ上である兄とは

小さいころ 直接遊ぶことは
あまりなかった
兄は 私よりはちょっとだけ
イケメンだった
だったっていうのは
今は 虫歯だらけで ぼろぼろ
髪は かつら
兄は私みたいにいたずらっ子で
あまえっこじゃなく
真面目だったと思う
中学卒業後
長男の宿命である
家業の農家を継ぎました
でも20歳そこそこで
やはり まわりをみて
いろいろ迷いもあったのは
すごく理解できる
私は高校は電気関係に
進みましたが
そんな時期 父が
『○が家を出たいといっている
お前は継げるか?』と言われた
『継げる』こたえた
それは あり得ることだと
常日頃考えてたことだったので
即答だった
20歳そこそこで家業に縛られ
好きなこともできない
当然のことだと 思っていた
結局兄は家に残った
私は中学入学時
その時 流行ってた
自転車 カセットレコーダー 
とかを買ってもらった
兄は うらやましかったのでは
と思う
最初にも書いたが
兄は基本 真面目である
周りの信頼もある
友達も たくさんいる
でも 中卒ということもあり
なかには ばかにする
小っちゃい人間もいる
その人は 周りの
信頼もないが・・・
 
つづく

家族が笑った⑤

姉は人づきあいは

けっして よくありません
先方の気に入らないことが
あったかもしれません
でも それをフォローするのが
旦那さんだと思ってました
しかし 何年後かに聞きました
一日とて 食卓を一緒に
してもらえなかったそうです
家族そろって団らんの中
いつも 戸の後ろで
待ってたそうです
姉はおとしないいけど 
ウソはいいません
 
そして いわゆる 夫婦生活も
なかったと・・・
私は愕然としました
食事をすみで待ってた時の 気持ち
女として認められなかった屈辱
 
旦那は どんな気持ちで
暮らしていたんだろう 想像を絶します
絶対許さない!
気に入らなかったら もっと早くもどして
くれれば・・・
一家で おとなしい姉をいいことに
田舎ものが 自分たち 上にたてたと
勘違いしてたのでしょう
 
その後 何年かして 縁あって
隣町の農家へ 嫁ぎ
娘二人を育て その娘たちも
いまは 嫁いでます
孫もできました
かわいい 姪っ子たちです
普通の家庭生活をおくれたことは
よかった
女として 妻として 母親として
 
つづく

家族が笑った④

父からの突然の電話

いやな予感はしてました
『下北に荷物取りに行く』
そうです 姉の花嫁道具を
とりにいくのです 
父 兄 従兄弟 姉 私
兄と従兄弟はトラック
父 姉 私は 乗用車
北の果てまで5時間
重苦しい空気の中
向かいました
 
途中 お世話になった
仕事関係の お宅に寄り
嫁ぎ先へ
そこでは 先方の親戚も
準備しており 二階から
みんなで運び出しました
その最中です
ふと 振り向くと 近所の
人が勝手口のドアを
少しだけ開けて覗き込んでました
そして私と目が合うと パタンと
ドアを締める それが 何件も・・
また ドアをあけ目があうとパタン 
 
わたしは(俺たちが何をしたの!)
(姉が姉がなにをしたっていうの!)
田舎もんどもが!話があるんなら
出て来い!
実際の生活は何があったのか
それは わかりません
失礼なことがあったかもしれません
でも 覗き込まれるあんな屈辱は
はじめてです 一生忘れません
 
帰りの車の中 父が突然 
『おい 歌 うたえ!』
そんなこと いう父ではありません
長い沈黙が つづくのが
耐えられなかったのでしょう
後部座席の姉を気遣ったのでしょう
 
いつもだったら わたしは
『そんな いやだ』っていうのですが
わたしはうたいはじめました
それも 五木ひろし
そんなん 普段 ぜったいうたいません
父への 忖度です
うたいました 大声で 涙声で
悲しさ くやしさ  ふりはらように
帰路で 記憶はその部分だけ
しかし その何年後
とんでもない 事実を 
聞かされたのです
 
つづく

家族が笑った③

私の姉

中卒後ニット工場に
就職 しかし
残念ながら数年後
倒産しました
実家に戻ることに
家事手伝いを続ける中
父は 自分の
仕事関係がらみで
縁談を進めました
なんとかうまく進んで
私もホッとしたのを
覚えてます
 
実家は青森の南端ですが
嫁ぎ先は北の端下北
姉はおとなしいですが
一通りの花嫁修業は
母に教えられています
嫁いでから 何年後か
忘れましたが
私は 社会人になって
仙台に住んでました
そんな ある日 父から
『ちょっと家族で話したい
ことがある』との電話
とりあえず実家へ向かう
ことに・・・
そして 一生忘れることが
できないことが・・・
 
つづく

家族が笑った②

姉は ちょっとだけ

障害がありました
知恵の部分で・・・
っていっても
生活にはまったく
支障がなく義務教育も
普通に終えました
いじめにあうこともなく
逆に友達もたくさんいました
その後ニット会社に就職
障害という言葉は
数年前に 母に聞いたくらいです
心臓の病気と関係あるのかな
とも 話してました
以前記事でもかきましたが
弁膜症で手術してます
 
確かに人との会話等 は 
得意ではなく おとなしすぎます
でも小さいころ ドーナッツとか 
つくってもらっていい姉です
ちなみに 御三家では
西城秀樹 ファンでした
 
実家は これといって
個人の部屋はなく
姉の化粧品を見る機会は
よくあるのです
ある日 ハサミみたいな形状の
先に 半円の そう いかにも
目にあてるかたち。
しかし どうしても
あてたくなりました 
そうだあれだ
しかも 私は 直接 まぶたに
『いたたたーーー』
こんなにまでして 女は 
二重まぶたに したいのか
やっぱり 私は ただの
くそガキでしたbleah
あとから 知りました
それが まつ毛をカールするやつ
だったことを・・・・・
(盛ってません 実話です)
 
しかし なんねんか後
絶対許せない出来事が
起きるとは・・・
 
つづく

家族が笑った①

物心ついたときの

私の家族は
両親 6歳上の兄
4歳上の姉
そして 父の姉である
叔母
叔母に関してはいろいろ
事情が・・・
(まっそれは置いといて)
決して裕福でなかった
我が家は父 母 兄
みんな一生懸命働いてました
働かずもの食うべからずで
休みは私も含めて農作業の
手伝いです
農閑期は
出稼ぎでだれもいなくなり
ある期間は叔母に
育てられました
口うるさい叔母を私は
嫌ってました
母もあまりよくはいってなかった
そんな叔母も私が中学の頃
胃がんで亡くなりました
母が看取りましたが
痛みとの戦いで最後は
壮絶で
みていられなかったそうです
母は 今も含めて一生懸命
供養してます
叔母はキッチンドリンカーでした
私が 台所に行くと ビンをかくし
口元をふいてました
 
ある日叔母と私だけの水曜日
小学高学年だったでしょうか
いつものとおり叔母は
夜9時前になると『寝ろ』とうるさい
私は生返事してテレビから
離れません
なぜかって・・・
『時間ですよ』が始まるのでした
ただのくそガキでしたcoldsweats01
ごめん あっちゃ(叔母の呼び名)

つづく

ひっぱてるなー

ひっぱってます

 
精神的に
ひっぱってます
 
自覚症状は
足の指の
ズキがたまに
手の指先も
かるーく痺れ
便も便秘気味
なんだけど
楽な 排便
 
胸のむかむかは
ストレスだな
 
野球もボチボチ
始まってきたし
切り替えていこう
 
さあー 明日は
出勤だ
イェーーー
 
んーーー
結構 いっぱいいっぱい
なさけないweep
 

むかむか

精神的なむかむかです

根性なしの小っちゃい私は
今日まで 尾を引いてましたが
やっと 落ちつきました
 
今日社長に 状況説明しました
 
腫瘍増大したこと
TS-1に変わったこと
緩和ケアのこと
兄から 
TELがあるかもしれない事
そして最後は 社長に託すこと
諸々 お願いしました
承諾いただけたと思います
 
んで 一発目から
やらかしました
TS-1は 水曜の夜から
開始でしたが
錠数間違えました
3錠なのに 1錠しか飲んでない
まっ いまさら しょうがないけど
言いわけします
腫瘍増大で 動揺してました 
 
2日目と3日目 朝の血糖が
160に 落ちてました
最近200以下にさがった
事 なかった
たまたまか わかりませんが
このままいってほしいな
 
便が下痢気味なると
聞いてましたが
今日の便は 便秘気味でなく
ちょうどいい感じ
久しぶりに 楽な排便でした
その他 自覚症状等に変化 
なし
 
生きるぞ 負けてたまるか!
闘うの嫌いといいながら

負けないと いって
るじゃないかい! おい
SAKU
 

兄との会話 長文②

兄との会話 長文①から つづく
 
これから 従兄弟である
社長に ますます 負担が
かかるかもしれない 諸々
話しました
兄は 告知後 社長に
一回も連絡してません
社長は そういうことを
いちいちどうのこうの
思う人ではなく
男気ある人ですが
結局答えは
『いそがしくて』です
そんな 一連の兄の態度に
『まーできれば TELしてくれれば』
に わたしは納めました
(ふつう連絡するよな)が本心。
 
身内の悪口は言いたくありません
でも 本当に腹は 決まりました
母親への 告白の話は 
もうしません 実家に戻ることは
ありません
愛知で骨になってかえることなります
『墓にだけは いれてくれ』とお願いしました
 
兄の気持ちもわかるし負担も大変なのは
わかってます 母親への優しさも・・・・
 
母親の性格は 私の方がわかってます
それは いろいろ事情があるのですが・・・ 
後日 記事にすることに
なるかもしれませんが
 
母親は今の私の状態をはなしても
ショックはあるかも知れないけれど
簡単にへこたれません そういう人です
 
一番 頼りたい肉親でしたが
社長に たよるしかありません
いま 精神状態は
最悪ですが・・・・・
 
やっぱり 私が
甘えてるのでしょうか
 
でも 負けては いられません
あきらめているわけでは
ありません
先を見据えて 自分なりに
事を進めていくだけです
 
私のことを 見守ってくれてる
すべての方々
そして この ブログを 読んでくださってる
すべての方 
がんばりますので
ご指導ご鞭撻 を お願いします
ご香典も 
受け付けますhappy01
(下品なギャグでごめんなさい)
乱筆 乱文
長文 失礼しましたm(_ _)m
 

兄との会話 長文①

長文です
 
腫瘍増大

TS-1移行など

状況が変化したこともあり
田舎の兄にTELしました
 
状況変化報告とともに
あくまでも 希望として
八戸なり 盛岡なり
緩和ケアしてくれる
ところが あれば
最後は そこで・・・
と 話しましたが
要約すると 兄は
『こちらの負担が増える』
的な答え
病院を探すのも 手続きも
元気なうちに 私がするから
と 説明しても
上記の答えがかえってくるばかり
 
もうひとつ
これも あくまでも 希望という
前提で
『母親に 内緒にしてるけど
うちあけて 最後に 母親の
顔もみたい』
(内緒にしても ばれちゃうよね
この姿みたら)
しかし 兄は
『そんなことしたら ショックで
倒れる』
そんなことは わかってるんです
でも 母親の子どもして 会いたい
そんな思いをはなしましたが
 
しかし 兄の答えは NOです
今の正直な気持ちでした
あくまでも希望として・・・
不安定な 気持ちを察してくれる
と思いきや 違いました
ウソでもいいいから
わかったといって 
言ってほしかった
 
私の ダムは決壊しました
『もういい!』 はじめて
兄の前で泣きました 怒りと
くやしさと なさけなさと
確かに 私の
甘えもあるかもしれません
でも ケア病院の件しろ
母親の件にしろ
ことごとく『こっちも大変』
兄は 父親の介護を何年も
やってきました
父親は 兄により
立派に逝くことができました

母親も数年前脊髄損傷の
けがして 兄の負担もふえました
私は涙声で
『大変だった兄を私は尊敬する』
旨を話しました
でも『もういい わかった 腹は決まった』
嗚咽ともに 発してしまいました
兄の 応答はありません
最後には冷静さをとりもどしました
 
つづく

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